滝悦子のエッセイ「洒洒落落(しゃしゃらくらく)」

モノを集めるということ

趣味がコレクションの人は要注意です。
人には二種類あって、整理能力のある人とない人。物を集める人はなぜか、ない人が多いのが共通している。
集めたら、それを分類するとかキレイに並べるとか当然するべきだと思うのだが、集めっぱなしだから部屋が散らかってしまう。そこいら中にコーヒーカップやテディベアがころがって足の踏み場もない、とか。
コレクターとは生涯、自己矛盾を抱えて生きるのだと思ってしまう。
その根底にあるのは小児性ではあるまいか。
子どもの頃に切手やコインを集め始めて、還暦すぎてもやっている人。いつまでも少年の心を持ち続けている、といえば聞こえはいいけど、それが小児性ということだ。
幸いにも、もっと経済力があり、コレクトする趣味を支えるお金が伴なった人にも盲点はある。
蒐集したものを私財を投げ打ち建物を造り、陳列している人たちを三年かけて取材して回ったことがあり、そこで深く理解した。
飾ってあるものはステキなのだが、性来の意地悪のせいで、外に出て周りをぐるりと眺める。すると、ゴミとなったものが散見できる。
物を集めている人は、常に捨てられないことと戦っている、つまり自己矛盾であると。
見る眼がない人ほど集めたがるとも知った。視点がしっかりしている人には美意識もあるから、これ以上集めても意味がないと知って線引きもできる。
中途半端な金持ち気分の人がガラクタ集めるのが最悪で、本物だと信じていたらニセ物だったと知って、見るも無残に落胆したりしてるのは恥ずかしい。
見る眼がないなら手を出さなきゃいいのだ。
集めるのなら自分の生活に結びついているものがいいのではないかと提案したい。
整理整頓もできるバランス感覚を伴うコレクターという稀有な存在をひとり、といえば白洲正子が思い浮かぶ。
物量を集めるのでなく、良きものを使うために持つ。執着のない蒐集ができた珍しいタイプの人で、衣食住のみならず夫も最高をコレクションした。死んだあとの住居は観光名所になっているし、自分の周囲を空間の美にまで昇華していった人だ。
もちろん審美眼を磨くために人知れず爪を研いだであろうとことも事実で、ことほど左様にひとすじ縄ではいかないのがモノ集めであります。