滝悦子のエッセイ「洒洒落落(しゃしゃらくらく)」

自分を磨く

春の息吹きが感じられるころになると、なにか心機一転、と目指す人が増えるらしく、
「わたし、貫禄をつけたいんです。どうしたらいいんでしょう」
とつぜん思いつめたような視線の30代OL。
よぉく聞いてみると、小柄な彼女は、その分、向上心も強く、自分自身を現在よりもアップ・グレードしたい、どこへ出入りしても物おじしない、オトナの女性として自己確立をしたい、ということらしい。
こういうときの私の対応は「場数(ばかず)を踏むことよ。それも非日常の空間で自分を磨くこと」
毎日毎日、会社と家の往復だけでは人間力は強くならない。旅や恋や涙や失敗を積み重ねて人ははじめてオトナになるのだ。
具体的にいえば食べること。
これだと分りやすい。いつもいつも一回千円ではなく、飛び切り高価な店に行くのは刺激と勉強になる。
私も20代の頃から実践してきた。
今から半世紀近く前だから、ミシュランのガイドブック日本版は無かったけど、文士たちの小説や随筆に登場する格式のありそうな店に行ってみて空気感を味わった。
現在ならコワイものなしだが、当時は経験値もなくハラハラドキドキだった。
しかし食一本に絞って励んでいたら、いつのまにかフードライターと呼ばれるようになっていたのだから、行動は強い。
だから、こんなエピソードをみつけるともの凄く嬉しくなるのだ。
死してなお人気の高い向田邦子のエッセイに、広い屋敷で一人鱧(はも)料理を食べるくだりがある。
こんな堂々とした料亭とは知らず、困ったことになったと思ったが、今更引っ込みがつかなくなって覚悟を決めた、と。
食べ終って、悠々とした態度で酒を飲み、たった一人で料理を食べたのに感心した仲居さんから「あんたさん、きっとご出世なさいますよ」と声をかけられた。
最後が笑わせる。
「ご出世のひとことにくすぐられたのか心付のほうも私としては破格の弾みようで、板前さんから仲居さん一同、店の前にならんで見送って下すった。タクシーに乗ってから、どっと汗が出た」