滝悦子のエッセイ「洒洒落落(しゃしゃらくらく)」

自分が今10代だと仮定して

「対談」という形式が好きだ、と前回書いたら「私もです」と反響があった。
同好の志とは確かにどこかに存在するものだと嬉しくなってもう一つ対談の妙を。
美術家の横尾忠則とデザイナーの三宅一生は互いに「自分の人生は充実していた。しかし満足と次の仕事は違うからこれからももっとやりたいことをやる。初心に返る時代」と基調をほぼ同じくして語り合う(「芸術ウソつかない」ちくま文庫刊)のだが、そのなかで、

横尾・ 「本は若い頃に読んでおかなければ意味がない」とある本に書いてあった。ところが僕は10代の頃に全然本を読まないで過ごしてしまったんですよ。そこで、自分が今10代なんだと仮定してここで読んでもいいじゃないかと思って、内外の名作文学を読んでるんですよ。思春期の感受性とは違うかもしれないけれども、過ぎてしまった過去を今から別の形で取り戻すこともできるんじゃないかと思って。
三宅・ 僕も最近は日本の古典、たとえば「枕の草子」とか「古事記」みたいなものに改めて興味を持ち始めたんですよ。
―――――と、見事に呼応し合って爽快だ。
この対談が記録されたのは2000年、今から11年前で、横尾64歳、三宅62歳のときだ。
色あせない芸術の香り、志、向上心。
特に「自分が今10代なんだと仮定して」というモノの考え方に、私は強く惹かれる。
いつまでも青春、などと詩にも唱われているが現実には60歳を過ぎて10代のキモチにはなかなかなれないのがフツウだから。さらに、

三宅・ 会社という組織があって大勢の社員がいてその経営的な責任があると、自分の役割として、やらなければいけないことが決まってしまう。そうすると自分の将来が見えてくる。55歳のときにこのままではいけないと焦りはじめたんです。で、先が見えない状態に戻した。
―――――とまた、このあたりの心理もスゴイと思う。
横尾もまた「先が見えないのが、いちばんいいんですよ」と返すのだ。
で、先が見えないことだと失敗してもともとだから発現も自由になるし、自分を突き放したところからしか面白いものはでてこない。「ホームレスみたいな状況になるのもいいかな」と三宅が笑えば、横尾は「いいですね。自分の所有したものを守るために縛られるより、自分の行くところがどこでも自分のスペースになっていくほうがいいですね」と。
こんな具合に続いていく対談を見つけたとき、私はこよなく幸せになるのだ。