滝悦子のエッセイ「洒洒落落(しゃしゃらくらく)」

年賀状の本質を考える。

師走に入り、「年賀状はお早めに」などというCMを目にするたびに思い起こす一節がある。

「正月がくると、私はもう翌年の年賀状を考え、これを注文してしまう。気が早いのにもほどがあるというので、 『もしも今年中に、あなたが死んでしまったらムダじゃありませんか』と、家人もあきれているのだが、しかし、この位に早目でちょうどよいのだ。」 とエッセイに書いているのは、池波正太郎。その作品「剣客商売」や「鬼平犯科帳」は未だに時代劇の人気トップである。

「真夏の書斎でセミの声を聴きながら、せっせと年賀状を書いている」という記述もある。

何事にも準備というものは大切である、とは充分に知っているつもりでも、一年前から注文するとは、凡人には考えにくい。 が、しかし、そのような卓抜した「準備の人」への憧れは、長い間、私のお手本でもあり、えんえんとその思いは続いているのだ。 池波先生はこうも述べている。

「賀状などというものはムダなものだという意見もあって、それはそれでよい。
だが私などは年ごとに賀状には凝るほうである。デザインを考えたり紙質を選んだりすることがたのしく、また、そうした細かい俗なことに気をつかうのが、とりも直さず、私の書く時代小説の基盤になっているのだから、私は俗に生き、 世俗にひたり込んで生きている。」

こういう「細かい世俗なこと」つまり細部に神は宿るといっているのだ。さらに、「相手の賀状をもらってから、そのもらった人あてに書いて出すやり方もあるらしいが、そんなことならいっそ出さぬほうがよろしい。賀状というものは、そうしたものではあるまい。年に一度の挨拶のやりとりで、年に一度も会わぬ知人が多いのだから、いちいち自分で書き、その相手の名をみて旧交をなつかしくおもいうかべるのは、うれしいことである。そうしたゆとりをもちながら賀状の宛名を書きたいので、正月早々、来年のを注文しても私には決しておそくはないのである。」云々。 どーですか皆様。年賀状ひとつをとってもこのように深遠に考えを巡らす男が存在した。年明けと同時に競うようにして「オメデトー」とメールする方々にこそひとつ、こんな日本人の在り方を知ってほしいのでした。